2015年8月11日火曜日

It's early that time has passed.I come to Germany also two years.
This summer is sometime too hot but sometime cold .so crazy.
Everyday I make my ART,and try to spread my Expression.
In this August ,I join the gloup Exihibition in Moenchengladbach.
This Exhibition place is Ruins .There was a plant factory before.
And 16 artists exhibit the work there.
The following detailed
時がたつのは早いものでドイツに来てもうすぐ二年がたちそうです。
今年のドイツの夏は暑かったり寒かったり、今日はTシャツだったのに先週はマフラーしてたりと気温変化が激しくて訳分からんです。
日々表現の幅を広げるべく制作に向かっております。
今月メンヒェングラッドバッハで展示をします。
まずは8月14日から友人のアーティストさんの紹介で参加させてもらえる事になったMISHPOKEというアーティストグループが企画しているグループ展示がメンヒェングラッドバッハで行われていてそれに参加します。
この展示の会場は元植物プラントだった廃墟とそのとなりの廃墟です。
完全に時が止まった空間で、その場所を会場として16名ほどのアーティストが各々の作品を展示する企画です。
こちらの展示には僕が現在テーマとしている「時」をテーマにした3メーター×4メーター程のインスタレーション作品と時が止まった廃墟で生き続けている植物や花を組み合わせて空間を演出します。
『GLAS GLUEN』
Open time 14,08 19:00~about21:00 
     15,16、22,23,29,30  13;00~17:00
Place Buscherstraße 37, 41065 Mönchengladbach
 
Künstler(Artist)
Sophia Bauer
Tim Cierpiszewski
Sebastian Dannenberg
Barbara Dörffler
Nanja Gemmer
Christian Gode
Sam Hopkins
Max Leiß
Menia
Uta Pütz
David Semper
Ulrike E.W. Scholder
Hiroki Tasiro
Johannes Trittien
Coen Vunderink
Eva Weinert
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Vernissage
Freitag, 14. August 2015, ab 19 Uhr
Einführung 20 Uhr (Ulrike Lua M.A.)
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Finissage
Sonntag, 30. August 2015, 13–17 Uhr
Führung 15 Uhr, Tombola 16 Uhr
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Öffnungszeiten und Führungen
Am 15., 16., 22., 23. und 29. August ist die Ausstellung von 13–17 Uhr geöffnet.
Eine Führung findet jeweils um 15 Uhr statt.
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Text folgt…
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2014年3月22日土曜日

ドイツに来ました

ひさびさの更新です

去年の10月よりドイツのデュッセルドルフに来ています。
今まで、バックパックを担いでの貧乏旅行は色々と行きましたが、海外に住むという経験は今だ無く、こちらに来た当初は言葉もままならない状態で住民登録したり、銀行口座作ったり、visa取ったりと非常に苦労しました、しかしこちらの知り合いや友人に助けてもらい、なんとかやっています。

それから5ヶ月よーやくドイツ生活にも慣れてきて、デュッセルドルフという街の事も分かり始めたところです。

こちらでアトリエも見つかり製作も始められ、今は語学学校とアトリエでの製作が日々のサイクルになってきています。

ヨーロッパの文化の成り立ちや、アートの在り方を日々眺めながら、自分の中で少しづつ変化が起きているのを感じています。

製作の中でも、今まで使った事が無かった素材を使用したり、プロセスを踏む事で、今までとはまた違った表現、感覚が生まれ始めている気がします。

少しづつ、でも着実に。変化を楽しみながら、東洋で産まれ育てた感覚と西洋のセンスを学び、おもしろい表現に挑戦しくつもりです。


2013年7月24日水曜日

「類化性能」と「別化性能」

日本ではのこぎりを「引いて使う」
海外ではのこぎりを「押して使う」

この一つの道具に対する、使い方で着目する点は、
① 自分を起点にして世界に働きかけ、変化をもたらす方向性なのか、
② 外側から自分の方に引き寄せる求心的な運動によって世界と関係性を築いているのか

という違いである
それは自己と世界(他者)との関係性をいかに築くかという問題であり、自我の形成に決定的な差異を生み出す

また日本後の文章にはよく主語が欠落しているが、これも、みずから、主体を規定せず他者や状況に想定させる事を期待するからである

このことから日本の文化は外部から引き寄せる運動によって少しずつその輪郭を形成していく節があると思われる


日本人の生み出す美についても、そのような傾向が見られる。
「アナロジー」すなわち表面的には異質なもの同士を結びつける能力、日本人はそれに非常に長けている

ある異質な体験に触れたとき、その体験に対して自己との違いを見出して、線引きをする
これは西洋文化の思考方法に多く見られ「別化性能」と呼ぶ

一方、その異質な体験に対して、類似性や共通性を見出し互いの関係性や結びつきを強化しようとし、モノゴトの線引きや分け隔てを設ける事には疎い
これは日本文化の思考方法に多く見られ、「類化性能」と呼ぶ

日本人はこの類化性能の思考によって、異質なものと内側の感情や記憶と照らし合わせ「見立てる」そして新たなイメージを生み出す事に特化している

僕の作品にも「炎天華」という「ニワトリ」と「華道」を類化性能の思考によって。組み合わせ生み出されたモノがある。

また日常の中でも、モノゴトに対する意見が対峙する時、そこに無意識に共通点を見つけ出し、ミックスして、新たなもっとおもしろい考察が生まれないかと思考するクセがある

このように、僕は根っから日本人的な類化性能思考の持ち主のようだ。

この思考方は、使い方を間違える、もしくは度がすぎると、何も生まれない。もしくは幽霊のような存在しか生み出されない。
非常に強いバランス感覚とある瞬間に置ける決定する意思の強さが必要である。

しかし、様々な異質な文化がこの世界には存在し、また新たに生まれている、その一見異質に見える文化やモノゴトを、まるで錬金術のような無限の組み合わせによって、そこには無限の可能性が広がっている。




2013年3月6日水曜日

「不在」の中に存在する「想像性」

現代のテクノロジーはホントに凄い速さで進化している

小さい頃ファミコンの画面の中で見ていた平面的な映像は、今やハイパーリアリティを持った世界を構築し、その中で自由に動き回ることができる

プロジェクターの技術もどんどん進化し、最近では3D投影という、あたかもそこに人がいるような映像を空間に造り出す事まで、できるようになった。

この速さで10年20年とたった先には、いったいどんなテクノロジーが生まれているのだろうか

一方、そんなデジタル、オートマティックな時代に反して、僕はこつこつと時間をかけて手でモノを作っている。

現代のテクノロジーは足し算を繰り返し、隙間を埋め、スピードを上げ、蓄積され完璧なテトリスのように積み上げられた技術だ
それを目の前にすると、アっと驚かされ、そこに作り上げられた世界に見入る事ができる

そこには現実とは別のテクノロジーで埋め尽くされた仮想現実がある


そんなテクノロジーの進化にある現代においても、今だに手によって生み出されたモノを求めようとする自分をはじめ、それを見ようとする人々の求めるものは何なんだろうか?


おそらくそれは、

       「想像力」である

「想像力」は「不在」の中に存在する。

足し算で埋め尽くされた完璧な世界では本来の人間の持つ想像力を発揮する事はできない、いや、する必要がないのだ、向こうからやってくるものにただ身を預ければいい

しかし、足し算と引き算を繰り返し、不在の空間を与えられたモノには、次元を超えて「想像」または「幻想」という無限の宇宙へコネクトできる扉が存在する

何十年、何千年とたとうが、どんなにテクノロジーが進歩しようが、人間は人間である

元来その想像力という神秘な能力を使い、生存してきた人類は、やはりその能力を発揮する事をどこかで望んでいるのではないだろうか

ハイパーテクノロジーで作られたモノは美しいかもしれない、完璧かもしれない
しかし、それは有限である気がする、流行のように、消費され忘れ去られていくだろう

僕は人間の手が生み出すチカラを根拠も無く信じている。
人間の手は凄いんだ。無限の宇宙と繋がれる「扉」を作品というカタチの中に生み出す事ができる神秘的なものだ

何度も何度も足したり引いたりを繰り返し、諦めずに信じる事で有限ではない、無限の幻想の世界を生み出す事ができるのだ

2013年3月4日月曜日

意味の存在する点について

「私は無である、そして私は作動している。アート、広告、商業、あらゆる分野で私は操作的だ。いや操作性そのものだ」

と言いはなち、アメリカのいや全世界のアートシーン、アート市場に強烈な影響を与えたのは、かの有名なアンディウォーホルである

彼の作品は著名人の大量に印刷されたポートレートであったり、日常の中で消費されていくモノを表舞台にひきずりだした作品であったりする



そのイメージの連続性という見せ方によって間違いなくその時代の価値観、モノの見方をがらりと変えた

そしてアートのモノ自体の意味性を消し去り、そのイメージと秩序の書き換えによってデュシャン以降のアートという概念、見方、流れに対し大きな変化を生み出した

このような「「シュミレーションアート」」はとてつもなく大きな流通を生み出し、強い影響力を持った


そしてウォーホルが死に、今現在のアート市場にもこの影響は強く残っている
得にニューヨーク、ロンドン等アートの中心といわれる地において

アートを生業にしようとする時、このようなアートの流通という点に対して無視はできないのかもしれない

しかしながら、その影響は残りながらも、モノ自体の意味性の無さを許容し続けていられる程人間のアートに対する欲望は軽いものではなく、そのモノ自体の意味性はもちろんの事、その周りにうずまく思考、哲学、特異な視点、が共存していないと、最前線では戦えない



もっと知識がいる。

「知らない」から、「いらない」ではなく、知った上でそこから独自の視点、隙間、より良くするための展望を発見し、それをカタチにしていかなければならない

今年中に自分の環境が大きく変わる。

そこで、またゼロになった気持ちで学ぼうと思う。カタチにしていこうと思う

2013年2月22日金曜日

推理彫刻

今少しづつ取り組んでいる「風景を彫刻にする」という試み

しかしこれは広大な大地を相手にしたランドスケープアートのようなプロジェクトではない

僕のやりたいのは、ミニチュワの世界の中に見るような手のひらの中に風景を見る。ような事だ

これは、ただ単に気になる風景をミニチュワとするのではなく

‘地の記憶(歴史)を掘り起こし、そこに新しい意味の世界を付与する‘

そして

‘その世界を通して、世の中の事象について想像をめぐらす‘

それが僕の風景彫刻における意味だ


風景と一言に言っても、様々な風景がある。
自然なのか、あるワンシーンなのか、遠いのか、近いのか、

現実の空間の眼に見える要素はものすごくたくさんある。
おそらく人はその眼に見える要素全てを把握しているわけではない
これは見慣れた自分の部屋であってもそうだ

その一つ一つの要素を分解し、考察する事によって、きっと今まで気づかなかったような事柄が見えてくるはずだ。
そこから要素の選択をし、再構築する。

きっとその風景に隠された。いや見えていなかった「何か」が見えてくるはずだ


こーして文章にまとめてみると、僕の風景彫刻というのはまるで探偵みたいだ

そーいえば中学の頃、道端に落ちているゴミとかを見て、そのささいな情報からそのゴミがその場所にいたるまでを推理?して考えるという一人遊びをずっとしていた

その一人遊びを彫刻という世界の中でやりたいのかもしれない

これはもう「推理彫刻」とでも呼ぶべきだろうか



2013年2月21日木曜日

円空   時代を越えるもの

少し前に親しい友人と会い。あーでもないこーでもないと話していた。
その会話の中で、その友人は

「自分はこの時代に生まれてくるべきではなかった」

なんて事を言った。

僕は少々カチンときて

「何を言ってるんだ!こんな時代もあんな時代も無い!生まれてきたこの時代がお前の時代じゃ!遠い昔のあの感じィーーーとか、もっと未来のこんな感じィーーーとか言ってんじゃないわ!たわけ!

そんな事言うのは、今、自分の目の前にある、やらなあかん事とか、乗り越えなあかん事を見ないふりしてるだけやわボケカス!

何か今の時代と自分の歯車が合ってないと感じるのは自分に何かが足りてないか、世の中を見る視点が偏り過ぎてるだけやわ!

どんな時代も人間なんてそんな変わらん!
メディアが「流行」とか言って変わってるように見せてるだけや

いつの時代も人間が求めている美しいとか嬉しいとか悲しいとかそういう心は一緒やわ!
解ったか!あほんだら!」

なんて勢い余って言ってしまったが、ホントにそう思っている。

「円空」が僕は好きだ。最近も東京国立美術館で展示があって見てきた。
そこではめったに見れない秘仏があってその純粋なカタチに心から美しいと思った

はっきし言って円空さんは彫刻が下手だ。カタチなんてほんとに大した事ないし、眼鼻口なんてお前これ5秒でピっピっピってやっただけやろ。。。裏なんぞ鉈で一割したそのまんまやし。もうちょっと彫ったら?って思う。

だがしかし、僕は円空が好きだ。いやみんな好きだ。
つまりそんなカタチがどーとか眼鼻口がどーとかではないのだ。
円空さんは死ぬまでに12万体の仏を彫ったと言われる。
何故かっていうと人々の祈りのためだ救いのためだ

だから円空仏はみんな笑っている

それが江戸時代から現代まで人々の心を打ち続けている。

そーいう事だ。人々の心に残り、大切に大切にされていくものは時代なんて関係ない
表面上の流行に翻弄されて消費されて忘れ去られていくような生き方をしてはいけない。

まーしかし確かに現代という時代は必要ない情報がいやでも眼に入ってくるし、その情報の渦に簡単に飲み込まれる事もある

だから、そのカオスな中でも自分の大切にしてる気持ち、価値観、美意識を強く持たないとだめだ、というか、いくら多くの情報があっても結局、自分の中に残るのはその意識に通ずるものだと思う


ちなみに円空さんは岐阜の人だ。岐阜の洞戸に円空記念館がある。そして郡上や高山には道を歩けば円空にぶつかると言えるほど円空がある。

僕が木を彫っているのも何かしらの「縁」ならぬ「円」なのかもしれん